腐女子の雄叫び

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絵とか文章の上手い人は”最初から”上手いのか?

こんにちは。おたけびです。

 

タイトルから察せられる通り、今回は少しセンシティブな話題を取り扱っていこうと思います。

 

この記事を読んでおられる察しの良い方は、ピンときたかもしれません。おたけび、とうとう二次創作の創作側に手を出してしまいました。そして案の定、見る専時代には知らなかった、産みの苦しみとやらをどうやら知ってしまったらしいのです。(言うてそんなに書いておらんのやろ、というセルフ突っ込みはおいておきます。)

 

自分で言うのもなんですが、私は今までなんでもそつなくこなしてきました。

学校の美術の模写で賞に選ばれないことはなかったですし(井の中の蛙)、音楽の先生にも初めて触った琴で、経験者かと聞かれたこともあります。ピアノを習っていましたが、弾けるといっても差し支えない程度にはうまいと思います。体力テストは小学生のときからA評価以外をとったことがありませんし、勉強は大学受験レベルでは何の苦労もしなかったです。まあ、所詮はその程度なんですけど……

 

それ以降の経歴は身バレが怖いのでぼかしますが、

そんな私ですから、思いあがっていたのでしょう。時間がなくてずっと見る専だったけど、その気になれば私もかける、と。

 

しかしですね、よく考えてみれば分かることなんですよ、果たして過去云十年を振り返って本当にその気になったこと(創作をやろうと思ったこと)が無いのかと。

 

あるんですよ。その気になったけど、かけなかったのです。

 

例えば小学生の時、本の虫で図書館の本を読みつくした私は面白いものが読みたくて、自作ファンタジー小説をノートに書いていたことがあったのですが、自分の下手さに耐えられなくて、筆を折ったという経験があります…… 今思えば、あれから続けて書いていたのならば、どんなにうまくなったのかと残念でなりません。(この期に及んで欲深い私(笑))

 

中学2年のとき、図書館の本をあらかた読みつくした私は、図書館の謎スペースに佇むラノベにうっかり手をだしてしまい、人生が狂いました(笑)。

 

ラノベにどっぷりつかった私は、それが原作になっているアニメにも手を出し、「推しが動いている!!」と衝撃を受け、どっぷり深夜アニメ大好き人間となったのは懐かしい思い出です。中学入学までは、深夜アニメとか無理!って人間だったのに、たった2年もしないうちに大好きになりましたよ。人生何があるかわかりませんね。

 

そして、アニメや漫画作品にはまったオタクがすることなんて、一つしかないでしょう。そうです、推しを描くのです。でね、模写が得意だった私は、キャラ絵の模写をしまくるのですけど、クラスに必ずいるキャラ絵描くのがうまい子が、何も見ないでキャラ絵を描いているのを見てしまって。見ながらしか描けない自分って”才能”ないな、と思って絵を描くのをすっぱりやめてしまったのです。

 

しかし、今なら分かります。見ないで描くということは訓練でできるようになることですし、見ないで描くということそのものが絵の上達法でもあるのです。当時の私は、”最初から”模写が上手かったですから、絵というのは才能で描くものであって、上手な人は”最初から”うまい、つまり上達方法というものにまで考えが回らなかったのです。

 

できる奴は”最初から”できる。

 

することなすこと、人並みにできてしまった私は、その誤った固定概念を成功体験を積むほどに、どんどん肥大化させていきました。

(今では、この考え方は自己成長という観念では良くない考え方であると感じ、考えを改めています。)

 

しかしですね、私は本当に”最初から”模写が上手かったのでしょうか。そもそも、最初って何ですかね。小学生の写生コンクールで評価される絵を始めて描いた時ですかね……

 

違いますよね。

 

私は小学校入学以前から、実は既にアニメが大好きでした。アンパンマンから始まり、たまごっち、ポケアニとともに幼少期を過ごしました。アニメにはまった小さなオタクは、人物ではないキャラクターの絵を狂ったように描きまくっておりました(伝聞)。

 

つまり、私の絵描き歴は小学校で写生の授業からではなく、たまごっちの模写から始まっていたのです。そして当然のことながら、3歳児の絵なんてとても上手いとは言えません。(年にしては上手いというのはあると思いますが、それだって一部の天才を除けば、どれだけ早く絵に興味をもったかという話ですよね。)

 

それに、ですよ。そもそも、できる、という評価も非常に曖昧ですよね。

 

確かに私は、写生コンクールで賞を逃したことがなかったですが、それってよく考えたら大した腕ではないでしょう。それで食べていけるとか、そういうものでは到底ありません。研鑽を積み重ねていったものだけが、その域に到達できるのです。

自分より絵とかピアノがあまり上手くないなと思っていた人が、続けることでいまでは自分の手の届かない領域に到達しているのをみると、継続の偉大さを思い知らされます。

 

(当時の自分は性格が大変終わっていたので、その腕でプロを目指すとか正気か?まあ、勉強はできないし仕方ないよね、と心の中で馬鹿にしていました。過去の自分をタコ殴りにしてやりたい。)

 

彼らがその後、その道で食べていけたという話は残念ながら聞きません。しかしですね、その道をはなからあきらめてしまった私には、その道で食べていける可能性がもう1mmも残されていないのです。

私はかねてから、自分の好きなことよりも評価されること、得意なことで生きていけば良い、と考えておりました。しかし、私はその得意であると思われた分野で挫折をしました。そして、それはある意味必然でした。

 

私は勉強ができる、と思って今まで生きてきました。勉強が好きだとは思ったことはありませんが、家で遊ぶために勉強する時間を悉く短くしたいと思って勉強をしていると、時間制限のあるテストと大変相性が良かったのでしょう。家で音楽やアニメ、ゲームをして過ごしているのに、とても成績がよかったです。周りからはガリ勉だと思われていました(笑)。

 

しかし、勉強が得意だと思っていた人間が大学受験を経ると、当然のことながら周りに勉強ができる奴しかいなくなります。

そこで私は、勉強があまり好きではなかったので、周りの奴の方ができるし、”あれ、私が勉強しなくても良くね?”という境地に至ります。(もうちょっと早くこの境地に至っていたかった泣)

 

まあ、どんな分野であれ、継続すると周りには才気溢れる上手いやつしかいなくなります。

 

そしてそんなことは、ピアノや別の習い事でも良くわかっていたことでした。

私はピアノは小学生のときに、別の習い事は中学の時に見切りをつけ、勉強の道に進んできたのです。

 

だから、本当に好きなこと(それか何らかの使命を帯びていると錯覚しているか笑)でないと、継続というのは、ある日突然、自分よりできる才能に囲まれながら研鑽を積まなければならない苦行と化すのです。

 

それまでは何となく、周りよりできるからという理由でやっていた勉強も、今ではすっかりやる気がなくなって、空いた時間に二次創作でも、と手を出し案の定下手くそな作品を量産してしまっている自分が嫌になります。

 

勉強もしなければならない(なまじレベルの高い場所に身を置いてしまったせいで、かなり高度なことをしなければなりません泣)、でも絵も文章もうまくなってチヤホヤされたい!(強欲の塊)

 

そう、私はチヤホヤされるのが大好きなのです!!!

 

どこまでも自分というものがなくて、人の評価に左右されるのが本当に嫌です。

 

そもそも、上手さって必要なんですかね。別に趣味なんだし二次創作自体は上手くなる必要なんてないんですよ。でも、こんな推しは自分が納得できない……し、評価されない自分も納得できません(笑) めんどくせーな俺。

 

量もこなしていないし、何の努力もしてないので当然なんですけどね。

なまじ今までろくに努力もせず成果が出ていたので、ストレス耐性が低すぎます。

 

努力とかしないのに負けず嫌いすぎる自分が恨めしい。

 

まずは100作品書いてから。

ブログもまずは100記事を書いてからですね…… 進捗は 3/100!!!

 

この難儀な承認欲求も使いようによっては、自分だけの武器になると信じて……

 

継続は力なり

 

尊敬する人物の座右の銘です……